金曜日, 4月 24, 2009

ミシェル・フーコー著「狂気・理性」を読んで。

最近は、読みかけの本が3冊中でも、このフーコーの著作は難解である。哲学の領域に入るこの本は、じっくりと腰を落ち着け精神を集中して読む必要がある本である。フランス哲学界をサルトルが席巻する後数年後フーコーが現れる。歴史認識と当時実存主義の概念「投企」にサルトルの著作「実存主義はヒューマニズムである。」から、感銘を受けたのを思い出す。サルトルの歴史への関与とフーコーの関与とは、全く違うことがこの本で哲かだ。歴史を個人の人生の中で昇華する言葉としての「投企」とフーコーの言う「狂人」とは、逆方向にある。歴史は、連続する時間の連鎖のレールの上に個人を乗せるという思考と、実存主義が言うところの「人間主体」の作る歴史という概念の相違に戸惑うばかいりである。久しぶりに哲学書に接したが、20世紀初頭とこの現代のグローバル化され、世界的金融機危機マネーが席巻する世界の中の哲学とは無縁の精神世界の物語と感じてしまう。フーコーの言うようにヘーゲルで哲学は終焉し、大学での講義用の学問というか知識でしか無くなったように思う。グローバル化され、ネット市民社会で生ける人間の人間学というか歴史への関与とか、全く異質の現実の中に我々が生きていることを感じ、この世界市民としての「人間」とこの人間が生きる社会と歴史を解明し、統一した世界観というか理論を展開する「狂人」「天才」が出現するのを待たねばならないのだろうか。

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