月曜日, 11月 29, 2010

トニー・ケンリック著「三人のイカれる男」を読んで。

1974年の原作だ。精神病院に通院する3人が巻き起こすドタバタ劇、だが決して憎めない男たちが、ある日通院途中でニューヨークの通りで陥没した道路の穴に乗っていた乗用車を突っ込み大破させる。怒り心頭の3人は、ニューヨーク市長への復讐心に燃える。ここから後半まで一気に読ませる面白さを本書は持っている。プロットの巧みさは圧巻だ。

金曜日, 11月 26, 2010

ジェフリー・ディーバー著「ロードサイド・クロス」を読んで。

著者の本は、これまでほぼ全て読破している。今回は、リンカーン・ライム&アメリア・サックスシリーズではなく、米カリフォルニア州の特別捜査官であり、キネシスクの専門家であるキャサリン・ダンスシリーズ、「スリーピング・ドール」からの二作目だ。期待どおりのローラコースター的結末といい、ディーバーの真骨頂的作品として仕上がっていると思う。舞台は、カリフォルニア州モントレー、ゴルフ好きにはタマラナイ世界屈指の名ゴルフリンクスそうペブルビーチほかゴルフの聖地だ。交通事故を切っ掛けに連続殺人事件が発生し、ターゲットとなった高校生でネットゲーマーオタクと地元でブログを運営する有名人、まさにコンピュータネットワークをテーマで発生する殺人事件の捜査をダンスがキネシスクを駆使して犯人を追い詰める。事件は意外な結末へと向かう。

金曜日, 11月 19, 2010

五木寛之著「歎異抄の謎」を読んで。

仏教から浄土真宗、法然、親鸞そして蓮如と著者が数年に渡り研究し続け何度も読んだという親鸞の随門を記した唯円の著作だ。第1章から18章までの短い著作の中にある親鸞の信仰哲学が書かれている。著者の現代訳の後章に、原文が掲載されていて「歎異抄」を読む好著だと思う。

木曜日, 11月 18, 2010

ディーン・R・クーンツ著「殺人プログラミング」を読んで。

閾下という知覚制御というか、マインドコントロールをする薬剤を開発した3人と休暇で訪れたブラック・リバーという小さな町を舞台に展開するサスペンスだ。人間の無意識下にある意識をコントロールするという旧ドイツナチスが、行ったといわれる。映画・広告にもこの手法が使われていると。コンピュータ社会到来を告げる1970年代に発表された本書だが、今でも説得力があり面白く読んだ。

火曜日, 11月 09, 2010

五木寛之著「他力」を読んで。

本書は、エッセーを纏めたものである。テーマ・アジェンダは、現代社会と宗教、人生色々と言ったところだ。中でも、著者お気に入り親鸞の正統的伝承者である、蓮如についての記述が多い。親鸞が哲学的理論派とすれば、まさに現代で問われている実践派を行くのが蓮如だと。日本の宗教家が、現代社会の様々な説明できない事象例えば、酒鬼薔薇少年事件やオーム真理教地下鉄サリン事件、そして年間3万人を超える自殺者この現代社会の暗部・恥部をどう説明するのか?著者は問う。

金曜日, 10月 29, 2010

ドン・ウィンズロウ「高く孤独な道を行け」を読んで。

ストリートキッズから3作目にあたる本書は、やはりニール・ケアリー青年探偵が活躍するミステリーだ。前作は、中国は四川省を舞台だったが、米国に戻り場所はカリフォルニアだ。幼児誘拐事件とその奪還依頼を受けた組織が、中国でのミッションを終え休暇中のケアリーに命がくだる。ユダヤ排斥、キリスト教同一同盟とのネバダの峡谷で繰り広げる死闘を交え、シリーズの味を存分に楽しめる。

水曜日, 10月 13, 2010

ドン・ウィンズロウ著「仏陀の鏡への道」を読んで。

文庫本で、600ページにも及ぶ長編推理小説である。著者の「ストリート・キッズ」処女作から2作目の物語である。一作目と同様主人公で私立探偵ニール・ケアリーが、活躍する舞台は、中国である。香港から四川省は成都まで及びさらに歴史的な背景までをプロットするというミステリーというか冒険小説的な物語となっている。仕事の合間に読んでまさに「ちょうどいい」という表現が、ピッタリのミステリーだ。

月曜日, 10月 04, 2010

ポール・メルコ著「天空のリング」を読んで。

かなり、長編SFである。名古屋へ行く途中、東京駅で本を忘れてきたのに気づき買った。5人の少年少女が改造人間となり、ポッドという集合体人間化し宇宙と地球を往来し冒険する物語である。地球上の人間数十億人が死んでの世界を、遺伝子工学を創めとする未来工学を駆使して作られた改造人間の世界は、ただただ退屈だった読後感である。

村上春樹著「ノルウェイの森」下巻を読んで。

死は生の対極でなく常に傍にあり共にあるものだと。下巻では、直子が自ら命を絶つ。何もかも残さず全ての行ける軌跡を消して、緑の父は、生涯を賭して起こした本屋を背に死んでゆく。残された姉妹二人は、本屋を処分してアパートに住み夫々の生活を始める。主人公渡辺青年を取り巻く、交通事故死する友人、そして友人の恋人であった直子、そして緑の父の死三者三様の死を描く。そうした死を見つめながらも生きる主人公の死生観とも言うべき不条理性というべきかを思う。そして生は続く。

土曜日, 9月 25, 2010

村上春樹著「ノルウェイの森」上巻を読んで。

著者の本は、この「ノルウェイの森」で3作目の読破となる。海辺のカフカ上下巻と1Q84の3部作そして今回の書である。自然から始まり女性、性とその類まれな文章の表現力は驚嘆に値する。そしていつも著者の小説にみる「人生」=「不安」「孤独」というテーゼが、各作品を貫いているように思う。主人公は37歳になるワタナベ君なる人物で18年前の青春の回想の物語である。ある大学の寮に住む主人公の青年を取り巻く同室同僚、頭の切れる永沢、そして恋人直子、大学の同僚緑。直子は元々同僚キズキ君の恋人だったが、彼は交通事故死となって、それ以降ワタナベ青年との交際が始まるが、彼女は精神疾患で京都の山深い療養所に行ってしまう。

日曜日, 9月 19, 2010

ドン・ウィンズロウ著「ストリート・キッズ」を読んで。

1970年代中期の著者の処女作と思われる「ストリート・キッズ」を読む。二ール・ケアリーなる主人公は、父母に見捨てられたストリート・キッズだ。父さんと呼ぶジョー・グレアムに育てられ、掏りの手口やらを入念に指導を受け成長する。大学院進学を前に、銀行の裏組織「崩友会」なる組織より、家出した娘、チェイス米上院議員の娘の捜索を指示され、ロンドンへと赴く。麻薬中毒と売春婦として生けるアリーを発見、アメリカ故郷へとアリーを奪還すべくニールの冒険が始まる。「犬の力」「グラーグ」シリーズを読んだ後では、聊か拍子抜けするが、著者の現在に至る軌跡をトレースできた気分であり、500ページにも及ぶ長編にも拘らず一気に読める一冊であった。

木曜日, 9月 02, 2010

梅棹忠夫著「情報の文明学」を読んで。

著者のものを十数年前に読んだ。「知的生産の技術」岩波新書だったと記憶している。読後、京大式カードを作成した覚えがある。フィールドワークの情報整理からの発想だったように思う。そんな著者が、A・トフラーの「第三の波」が発刊されたのが1980年、文明史観というか未来学的発想に目を見張った、正に目から鱗状態であった。その「第三の波」より先んずること17年、つまり1963年に情報の文明学なる本を書いた著者を天才と思う。日本で初めて「情報」という言葉に定義を与えた人物であった。現代のコンピュータリゼーション生ける我々はともすると、情報産業やらつまり情報という言葉が、ITを指し狭義の意味として使用されている。情報とは、文明を区画する時代の遷移をも意味する歴史的文明的なものだと著者は言う。

木曜日, 8月 19, 2010

柿崎一郎著「物語 タイの歴史」を読んで。

タイ周辺の国、東シナ半島周辺のベトナム、カンボジア、ビルマ(現ミャンマー)との対立抗争と国内での政変(クーデター)を繰り返し、現プミポン国王(ラーマ九世)へと変遷するタイの歴史は、正に抗争の歴史である。なかでも14世紀のアユタヤ王朝400年の歴史は堅固な王政ととも、今に見る世界遺産の建築寺院を始め文化の発展にも多く寄与した。

月曜日, 8月 16, 2010

角川歴彦著「クラウド時代とクール革命」を読んで。

IT、ICTと呼ばれる情報技術の覇権も既にアメリカに握られている。WebからYuTube、iPODやiPHONEそしてiPADつまり、出版・書籍から音楽そして映像、地図さらに通販と既に身の回りの全てに於いてマイクロソフト、グーグル、アップル、アマゾンなど巨大IT企業の下にある。日本の未来はあるのか?の問いに著者は、クール革命が必要であると。過去読んだ野村総研のIT市場分析では、日本のガラパゴス化は世界の市場から見放されグローバルスタンダードから乖離し世界市場に打って出られないと分析されたが、著者はガラパゴス化で結構という。日本独自の技術文化は、外国人から見てクールだと思われるコンテンツを掘り進め提供すべきだと、著者が言う2014年がその革命の年であると。今やアメリカの巨大IT企業は、こぞってクラウド化に突き進んでいる。このクラウド市場でも日本は遅れを取り戻さなければならないと著者は懸念する。

土曜日, 8月 14, 2010

五木寛之著「仏教のこころ」を読んで。

現代の於ける「仏教」の意味というか役割はどのようなものか?著者の真摯な問いがこの本を書いた動機でもある。この本の中で面白いと思ったのは、キリスト教布教の日本と韓国の違いである。日本のキリスト教信者は推定百数十万、これに対して韓国は一千二百五十万にも上るという。国民の25%にも達する。この違いこそが日本人の特性であると。神仏の区別なく混淆した日本人の精神構造は、私はその風土に今風に言えば、自然環境にあると思う。四方を海に囲まれ清らかな山河と四季は、日本人の精神構造を規定した大きな要因だと思う。仏があり、神様がある。この宗教観は世界的に見ても唯一無二の日本人特有なコンプレックス(複合的)な寛容と共生を可能とする意識構造を獲得したように思う。今イスラムとキリストの宗教対立が伴う戦争が、21世紀の世界に暗い影を落としている状況下で、この日本人の思想こそが世界を救うのではないかと著者は言う。

ウンベルト・エーコ著「薔薇の名前」下巻を読んで。

この「薔薇の名前」は、7日間の修道士ウィリアムとその助手であり見習修道士アドソとの修道院滞在中に発生する殺人事件のプロットである。華麗にして荘厳な修道院は、稀有にして膨大な書物の蒐集しそれを所蔵する文書館を持つが、この複雑な迷路になっている文書館こそが、殺人現場となった。次々と発生する殺人事件の最中に教皇派の使徒団が到着し、異端審問官ベルナールにより一旦は解決したかに見え院長はウィリアムとアドソに退去を命じるが、事件解決の執念を燃やすウィリアム修道士は遂にその核心へと踏み込む。事件は、一人の盲目の老修道士ホルヘの一冊の書物を廻る異常なまでの神への服従が齎した結果であった。

土曜日, 8月 07, 2010

ウンベルト・エーコ著「薔薇の名前」上巻を読んで。

著者ウンベルトは、イタリアの哲学者でもあり小説家である。14世紀、教皇と法王との宗教対立を背景に描かれたミステリー長編小説である。イタリア北部を中心に当時ヨーロッパの修道士、修練士の名前はミステリーとしては、あまり出てこない長ったらしい名前は読者を辟易させるに十分だ。精緻な歴史的な背景描写とアビニョンにある壮麗で複雑な数学的要素を取り入れた建築である物語つまり殺人現場であるメルク修道院の中で暮らす修道士の生活を通して、腐敗した宗教の実態が細かく記述されており小説とは思えぬ背景描写は、読者にとっては余りありがたくない。フランシスコ会修道士ウィリアムと修練士アドソが、調停の為メルク修道院に派遣されてから直ぐに殺人事件が発生する。修道院長に全権を委任され事件捜査解明にあたる二人は、修道院の秘密を次々と明るみに出すが、解明に至らぬまま次々と修道士が殺害され未だ、殺人犯人の特定ができずに。修道院の複雑な建物設計にかかわる殺人ミステリーというと、綾辻の暗黒館の殺人を思い出す。

水曜日, 7月 28, 2010

五木寛之著「蓮如」を読んで。

本願寺再生復興に向けて、8代目法王となる親鸞亡き後の蓮如の物語である。先に同著者の「親鸞」を読んでいるので、続編を読むような気分であった。時は、室町幕府戦や飢饉による大量の死者が、京の都の川辺に投げ捨てられるそんな暗黒な時代背景の中民衆は極楽浄土を願い一向念仏を説く蓮如の元へと集まる。親鸞聖人の深い教えを如何に民衆に平易な言葉でもって伝えるかを苦悩する蓮如の姿がある。84才の生涯の中で5人の妻をめとり27人の子供を設けた蓮如は、偉大なる煩悩を持ち合わせた聖人であった。

月曜日, 7月 26, 2010

湊かなえ著「告白」を読んで。

ストックしていた本も、シェイクスピアの「リア王」で切れた。近くのスーパーの中の小さな本屋、ここで「告白」を手に取った。2009年本屋大賞第一位とポスターの前に数冊置かれていた。300ページほどの文庫本を購入。昨日と今日の2日間で読破。何か物足りなさを覚える。母と息子の愛情物語か?その息子らに向かう教師、ある中学校のクラスの担任の女性教師の愛娘が、自分の教え子2人によって殺害される。教師の執拗な独自捜査によって遂に2人の教え子渡辺と下村に行き着く。そして復讐へと。女性教師としての母と子、犯人である教え子2人それぞれの母と子、歪な愛情が愛憎に変わってゆく過程を描く、何故か父親は影の薄れた存在だ。子に対する親の愛情を教師と殺害された愛娘そして教え子2人とそれぞれ母との関係を教師の側そしてそれぞれ息子の側から描く。

土曜日, 7月 24, 2010

シェイクスピア著「リア王」を読んで。

今回も、買い込んだ最後の1冊「リア王」だ。シェイクスピアは、劇作を作るとき種本を利用するという。様々な古典を参考にする。しかし、結果はシェイクスピア独自の作品として、独自のプロットを付加して新しい作品として誕生させる。このリア王も参考本では王と3人の娘の物語で、末娘のコーデェリアを追放し残る2人に全ての財産・領地を分け与えた王の結末は惨憺たる結果となり、不遇の状況の中コーデェリアと遭遇し、打ち解け最後まで仲良く暮らしたという話でつまり、ハッピーエンドで終わる物語であった。しかしシェイクスピアのプロットは、グロスターという部下を配しハッピーエンドどころか、王とコーデェリアは、殺害されてしまう。幾つかのシェイクスピアの物語を読み終えて感ずるのは、彼の人生観だ。シニカルであり、つまり成るように成らない不条理性と人生の偶然性が、彼の底流にある。これが悲劇の本質なのだろうか。